俺が俺をぐちゃぐちゃにしてやりたいとき


   067:ゆらゆら揺れる陽炎のような、不安定な想いだけがこの胸に

 夜半であっても繁華街の喧騒が葛の寝室へ届く。夜空へ向かって放射された広告灯の明かりが紅、碧、蒼、白と葛の目を愉しませた。戦意高揚を謳うがなり声を拡声器でばらまきながらもラジオは華々しい流行歌を高らかに歌い上げる。そろそろ葛と同居人である葵とが所属する組織の仕事も忙しくなってきた。表向きは二人で写真館を経営している。二人が出会った経緯は裏稼業の組織上層部の意向であるが表向きは適当に辻褄を合わせている。その内容は多岐に及び葵に丸投げしていた葛は大抵後になって、こうだったでしょう大変だったわねぇ、などとご近所に言われて葵の吹いたほらを知る。それでも、はぁ何とかなっています、とあたりさわりのない返事をする。なんとかなっていますで過去への矛先を断ちきり同時に会話も断ち切る。そもそも葛は人と話すことが苦手だ。出来ぬわけではないが必要最低限しか言わぬので会話の接ぎ穂がないのだ。葵などはよく、言葉のキャッチボールしようよ受け取ったなら投げ返してよと文句を言う。必要最低限投げ返している、と言うとそこで終っちゃうでしょ! と拗ねるが葛は自分がそう言う性質であると自覚しているから何でもない。無駄口は覚えてこなかった、と言ったら葵にひっぱたかれた。
 だがそれは事実でもある。葛がこの稼業につく前は軍属であった。少年隊であったがお偉い様の大刀を頂くほど優秀であり、葛自身も己の戦闘力を過小評価していない。そのまま大学校へ行くつもりであったがこの身に備わっていた特殊能力で引き抜きを受けて今に至る。葛はこの能力が嫌いだ。無論、必要があれば使用は躊躇しないが、好悪を問われれば嫌いであると答えるだろう。武士の子であることを忘れてはなりません。戦闘は正々堂々。相手の失策につけ込んで試合に勝利した際は葛をしつけていた祖母にきつく叱られた。恥知らずなことをするものではありません。穏やかではあったが冷たくて、肉親の情に葛はどうも薄い。
 祖母は葛をひとかどの軍人にするつもりであったらしく幼いころから剣技や体捌きなど戦闘術の訓練を受けさせられてきた。祖父はいなかった。父もいなかった。母もいなかった。祖父と父は軍人としての責務を全うしていた。母親の印象は薄い。家の中で料理をしている姿さえおぼろげだ。病がちであったのやもしれぬ。父と母の顔容さえ不鮮明だ。炊事洗濯と言った家事は家政婦を雇っていた。だから料理を作ってくれるのが違う人になっても、味付けが変わっても、葛は文句も言わなかった。それが常であったからおかしいと思ったことはなかった。祖母は勝気で強い人であり、料理などしなかった。祖母が台所へ立つ姿を葛は知らない。葛が料理を覚えたのはこの裏稼業についてからである。つまり、祖母の厳しいしつけと訓練から逃れ出てからである。軍学校時代の教えが出来ることは出来るようになるというものであり、自分の身の回りくらい自分で見れるようになれという趣旨であったから覚えた。料理などの家事の面倒をみると偽って情報を盗んでいく手段はありふれているから隙を与えるなと言うことだろう。
 ごろ、と寝返りを打つ。鎧戸を下ろし忘れた窓からつんざく広告塔は天井を様々に照らしだす。素肌にじかに敷布を擦る。葵との交歓の名残で体が拓いたままだ。葵は人好きのする顔をしている。男らしくくっきりと太い眉と通った鼻筋、少し大きめの双眸と一房、筆で刷いたようにぴんと長い睫毛が目淵を彩る。髪も瞳も日本人にしては薄い肉桂色をしている。当人は、日本人だと思うけど。特に外国人だった覚えはないなぁ、留学してもお前亜細亜人だなって言われたし、と気にもしていない。葵のくるくる変わる表情を見ているとやはり人に好かれるというのは条件があるなと思う。仏頂面といて楽しいわけもあるまい。それに葵は言いたいことははっきりと言う。否か応かが明瞭だ。だが自分の感情で行動するきらいがあるから出来ぬことまで出来ると言って無茶をする傾向もある。葛は何度かそのフォローに回されたこともある。そのたびに馬鹿がと叱りつけるが一向治る気配さえない。
 だがその分、葵の行動は大胆だ。想い切りも良いし度胸もある。

そして、優しい。

これが葛は葵と違うという明瞭で絶対な違いだ。相手の心情を慮れる。同調することが出来る。共に泣き、笑い、時に怒り、干渉できない不満さえ抱く。己の感情を変化させられそれを態度や表情で示すことにためらいはない。
「あおい、おれは、こわい」
それは隙ではないのか? 共に泣いたとて何が変わる。状況が悪いなら改善に力を注ぐべきであって傷を舐める暇などない。だから葛は葵が怖くてうらやましくて疎ましくて愛しくて欲しいと思う。私に出来ぬことすべてやる。しかもそれも生まれもった力であるかのように自在に操り精度も高い。経験の差かと思ったが、葛はそれが言い訳であると判じた。経験であるならば条件は葛も同じだ。葛が至らぬだけである。
 寝台の上でのそりと起き上がると壁に背を預ける。窓硝子の透明度に目を眇めながら葛は湯を使っているだろう葵のことを考える。葵のことを考えるのはいつも弱っている時だ。ほら、私の隣にはこんなに強くて優しくてカッコ良い人がいる。自分勝手な自己満足だと判っている。錯覚でもある。葵は葛のものではないし葵の行動も葛のためだけのものではない。そこにはキチンと葵の自立性が存在するのだから。葛は己の胸に空いた虚を見る。少し前の任務だった。葵とともにであったが葛がドジを踏んだ。胸を撃たれた。任務はしっかりとこなしてからモグリの医者にかかった。葵には心配するなついてくるなと拒否した。医者は傷を診ながら、肺を貫通してるねぇしばらく血を吐く咳が出るよ。背中からも出血があるから弾ァ貫通してんな、骨に損傷がねぇなんてあんた運がいいねェ。しばらく養生するこったな。そうしねェと長引くぞ。生活送るにゃ支障がねえがやりあうにはちっときついかもな。所属団体の紹介の医者である。もとより葛の位置を知っていての言葉だろう。葛は礼を言って医療費を差し出した。
 血が止まったので包帯は自分で取った。抉れた傷痕が白い胸に空いていた。葛の皮膚は面白いほど白い。蝋人形みたいとはよく言われる比喩だ。その肌の肌理細かさが雲母引きの白い皮膚、その対比も鮮やかな濡れ羽色の黒髪と、ますます作り物じみているとは葵の評価だ。葵は初めて閨をともにした際そう言った。肌が白くて髪が黒くて、なんだか絵の中から飛び出してきたみたいだな。率直だというのが第一印象だ。だからどうでもない。褒めらえたと思って喜びもせず揶揄されていると憤るでもなく無反応の葛に葵は恐る恐る、怒った? と訊いた。別に、と答えてそれはそのままうやむやだ。
 ぎち、と爪先が穴を抉る。弱い。感情と言う無防備な精神面を晒すことのできない弱さ。それでも葛は葵を羨ましくも思い、同時に恋情を抱いている。人を好きになるというのはきっとこういうことなのだ、と葛は思っている。泣かれているよりは笑っていてほしいし、作る食事が美味いと言われれば気分は華やいだ。ぎぢ、と肉に食い込んだ刹那、喉が痙攣した。葛が思わず激しく咳き込んだ。腹の奥からこみ上げるような吐き気と喉の渇きでびりびりと痛む。げほごほと咳が止まない。不味いな、と思う。葵がもうすぐ風呂から上がるだろう。咳き込んでいる葛など見たら何をするか知れたものではない。それでも咳は止まずに葛は膝を抱えるように丸まって痰の絡んだ咳を繰り返した。
「葛ちゃーん、お風呂空いた、よ…?」
「あ、お」
ごぼ、と葛の口から鮮血が溢れた。葛が抑える間もあらばこそ、指さえくぐりぬけて敷布の上へ紅い華を咲かせる。血を吐きながら葛は咳き込み続けた。
「げ…ッは、ご…ぇほ、が、は…ッ」
ただでさえ白い葛の皮膚は血の気を失って白い。それなのに唇だけがまるで熟れたように化粧したように紅い。葵が茫然と突っ立っている。その目線が葛の口元へ据えられて動かない。
「…! ごめん、今、白湯持ってくるから」
濡れ髪のまま身を翻す葵の頬は湯上りばかりではない紅さに満ちていて、葛は嗤った。吐血して赤みを増した唇に魅せられたか、と。葛を抱いた男たちはみな判で押したように言う。お前の唇はなんでそんなに紅くって艶っぽいんだよ。ごぼ、と葛はそのとき一番の咳をして血痰を吐いた。


 「大丈夫?」
抉って開いた傷口の手当を葵がしてくれている。咳は止んでいる。敷布は散々な有様だ。紅い華が点々と咲き、取れない染みまで出来ている。白湯で潤った喉は先刻までの反逆など知らぬげに静まり返っている。葛は咳を理由に口を開かない。葵も咳の所為だと思っているから殊更詰め寄ったりしない。
「この間も葛ちゃん傷抉って咳き込んでたじゃん。学んでよ。馬鹿じゃないだろ?」
まったくもう、とガーゼをあてがいテープで留めると包帯を巻く。仰々しいが絆創膏ではその上からさらに葛が抉るので葵が諦めて手段を切り替えたのだ。
「葵、お前は俺が好きか」
一瞬ぽかんとした顔をしてから、葵は頬を染めてひらひら手を振った。
「やだなーもうー! 変なこと訊くなよ、好きに決まってんじゃん!」
愛してるよ? 葵の肉桂色の双眸がきょろりと見上げてくる。その真摯さと無垢さは葵の朗らかさとあいまって強力だ。
「俺は、想っていることと表情が、かみ合わない」
初めての発露だった。葛を長年苦しめてきた劣等感の根幹はこれだ。想いが表せない。好きと言っても嫌いと言っても、本当にそうなの、と訊かれる。いつしか何も言わなくなった。カタカタと葛の指先が震えた。裸身に毛布をはおった格好に寒さが沁みた。夏の近いこの時期でも夜は冷える。葵はその指先にそっと手を添えて包み込む。

「知ってるよ」

葵の微笑みはどこまでもどこまでも聖母のように慈母のように慈しみに満ちていた。
 「そんなの、葛ちゃんと一緒にいれば判るよ。葛ちゃん怒ってるなーとか、訊いたらいけないこと訊いたなとか、あ、嬉しがってる、とか」
当たり前じゃん、そんなの。葵は当然のように言いきる。葛目の目がわずかに見開かれた。
「ほら、今、嘘だ、って思ったでしょ。本当だよ。葛ちゃんの目って正直なんだよ。嫌だなーって時は眇められるし、嬉しいときって眉間が開くんだ」
「葵、俺は、俺の想いは陽炎のようなものかもしれないぞ。すぐに消えるかもしれない。すぐに死ぬかもしれない」
「そんなのはどっちも一緒。オレにだって言えることだよ」
はいできた、と葵の手がぽんと葛の胸を叩く。粗い包帯の布地がピンで留められている。
「葛ちゃん、オレはね。不安定でどこか欠けた人が人を好きになるんだと思う。自分でこれでいいやって満足してる人は補う必要がないから、外にも内にもなにも求めないよ。でも葛ちゃんはオレが好きだって言ってくれた。つまりそれって葛ちゃんがオレを必要としてくれてるってことでしょ。だから嬉しいんだよ。もちろんオレも葛ちゃんが好きだよ。感情が顔に出すぎるって、葛を見習えって何度かお叱りも受けたりしたしね。陽炎でもいいよ。極光でもいい。オレは葛が好きなんだからそんなこと気にしないよ。オレは葛だけを見てる。その葛ちゃんがオレを見てくれるなんて嬉しいよ?」
葵の笑顔は朗らかで幼く無垢で正直で。葛はどさりと寝台に横になった。白く蠢く裸身と包帯の白が混じりあう。
 好きだとか愛してるとか、そんな胡乱なの前から判っていたことじゃないか。葵はあっさり言ってのけた。そのうえで葛が好きだという。愛してるという。錯覚でもいいよ、今のオレには今見えているものが真実なんだから。
「あぁ――…お前には、かなわない、な…」
生まれて初めてだった。泣きたいな。玉のように双眸を潤ませていた雫が鼻すじを横切るようにスゥッと流れた。
「無理させちゃったかな? ごめんね、次から気をつけるから終わりにしないでね?」
「しない」
「ゆっくり、おやすみ」
溢れてくる葛の涙を葵は丹念に指先で拭う。しだいに葵の指先は滴るほどに濡れた。それでも葵は葛の涙を拭い続ける。

「オレはここにいるから。好きなだけ、泣いて笑って。二人で一緒にいようね」

それは不安定な咎人の哀しい慕情。


《了》

なんかグダグダした話になってしまって大変申し訳ない。            2012年5月27日UP

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